音を聴くこと。そのままを受け入れる
今日渋谷のデイライトキッチンへ、ピアノ調律のWSのためにはじめていってみました。
とってもステキなカフェでした。子どもの学校つながりのご縁です。
http://www.daylightkitchen.jp/news/detail.php?sid=12
子ども達が通うシュタイナー学園の音楽の授業は、厳かな静寂の中で
ただただ響きに耳を澄ます、という所から始まります。
そういう音楽体験を通して、親の私も、
聴くという行為に奥深い世界があることを知っていきました。
そして2年前に出会った量子場調整という技術を通して、
対象に客観的に向き合う新しい手段を手に入れました。
この二つの行為を通して、私の中の、
耳を澄ます、という態度が、育ってきたように思います。
そして、ごく最近、この延長線上に、
受け入れる、ということと、許す,ということが
日常で顕われるようになりました。
一見関係のなさそうな行為ですが、この二つは同質なのだと日々実感します。
今日のWSでも、この二つがキーワードとなり、
音の振動を耳ではなく体で感じることで、全ての音に良いも悪いもない、ただ振動があるだけ,ということを体験しました。
内田さんはそれを意味付けしない、と表現していました。
私はすぐに、量子場的にはジャッジしない、判断しない、ただ観察するだけ,ということだな、と脳内変換してました。
判断せずに認識することの大切さを、全く違う切り口から、今日は体験しました。
それも音(響き)をとおして。
それは、そのままを受け入れる,ということだと。
音に名前を付けず、カテゴライズせず、(バイアスをかけず)ただただ音を観る。
自分の体のどこで響くのか、どの方向から、どんな質なのか。高いのか低いのか、遠いのか近いのか。そんな風に観ているうちに、純粋な音の体験がどんどん豊かになってくる、ということを入り口ながら体験しました。
エネルギーに満ちたお野菜の美味しいお料理に舌鼓をうちながら、
色んなことをわずか6人程度でシェアし、今日の理解を落としつつ、
最後に聴いたサックスとクラヴィコードの演奏。
都会のカフェの喧噪さえも音楽の一部となって調和しつつ、
聴いている人の中に深く響く音達は、
とうとう許して許される、という体験まで引き出しました。
なんということでしょう。
耳を澄ますことは許すことであり、許されること。
というのを目の当たりにした今日。
自分の中を豊かに響かせ、他者の響きをただただ受け入れ、両者の響きが交わることで
全く新しい響きが生じることを識る。
そのすべてが喜びであり、美しい。
平和という形は、このようにして創られるのだろうと思います。
シュタイナーの音楽体験と内田さんのピアノ調律。
今度は藤野で是非コラボ企画をと妄想しながら眠りにつきます。
天使の皆さまよろしくお願いします!
立春末候
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